第16回 そういうわけで、手紙です
誰もがケータイやパソコンを持つようになり、Twitterやfacebookが流行し、CDが敬遠されダウンロードで音源が手に入る。ちょっと前では想像できないことが現実に起こっている。28年前にディズニーランドで見た「キャプテンEO」。二色眼鏡をはめてマイケルの周りを飛び交うスペースモンキーを手で追い払いながら、3Dってスゲーってたまげたばかりなのに、今じゃ茶の間で3Dテレビが鎮座する。ついでにどこ行ったベータマックス、VHS、レーザーディスク。どいつもこいつもスターウォーズのキャラクターみたいなネーミングじゃないか。さらには写るんです、カセットテープ、MD、ラジカセ、黒電話…
時代は変わる。変わるたびに新たな産物にこんがらがりながらもしがみつく健気な民たち。今のままでも大して不都合はないけれど、みんながそうするから仕方なく…
とりあえず僕もメディアにのっかってる人間なので、そこそこはやる。詳しくは「やらなければいけないこと」だけはやる。でもそれ以外は捨てている。”でもそういう業界でしょ?”というスカスカな意見はやめてくれ。
ある時、俺は決めた。だれだけ時代が移ろうともテクノロジーが進化しようとも、これだけは続けよう、と。手紙である。手で紙の上に文字を綴る、それである。
僕の鞄にはいつも筆ペン2本と万年筆とシャーペンとボールペンと赤ペンが入ってる。あとは消しゴムと線ひき(郡上ではスジヒキだそう。ちなみにセンヒキも立派な方言らしい)、そして和紙の便せん一冊。なんでもかんでもその場で書いて気持ちを表現するのである。筆ペンにするか万年筆にするかを決めるのは気分である。パソコンで言うところのフォントに相当するかどうか、そこにはデザイン的な意味合いを遥かに超え、どれが一番この場面に相応しいかという奥の深いところへ旅をする。その昔、利休が客人に器を選んだように(っておーげさですが)、俺もまた、筆を選ぶ。根っからの日本人であるからして、字が綺麗な人と箸と茶碗の持ち方が美しい人に恋をする。顔がやや的な人であればずっと背後から眺めていたい光景である。まぁいい、次にいく。
6年前、郷ひろみさんから電話で、当時の最新アルバムについての感想を聞かれた。僕はケータイを片手に思いの丈を告げようとしたが、なぜか”手紙に書きます”とお伝えした。早速手紙を書いた。郷さんの曲について書いているつもりが、楽曲を入り口に、文章はてんで違った方向に行ってしまった。個人的な気持ちが曲の中に紛れ込んで、郷さんのリクエストとはほど遠い文面となってしまった。読み返しても何書いてるのかよくわからない、だけど破り捨てるにはもったいない。けど渡すほどのものでもないし……結局、それを郵送する気にはなれなくて、直接手渡しして、わかんなければ口頭で説明すればいいや的な気持ちで郷さんを尋ねた。
”あの、これが、アルバムを聴いた感想です”。”手紙かぁ…”。妙な距離感、緊張感、なんとなく汗。これ読んでどう思ってるんだろ、このあたりでなんか切り出した方がいいだろうか、間持ちしないから軽く笑い入れよか、どれもこれも掻き消す静寂…。郷さん、手紙から目を離すし俺の目にロックオン。スターの目力にカロリー奪われ、また静寂……
”ありがとう。歌って言うのは人それぞれの人生を重ねるんだね。あらためてそれがわかりました”。
えっ、ほめられ、てん、の。なんとなくピンチを乗り越えて安堵している僕に郷さんが続けた。「僕の歌も、手紙のような存在になりたいね」。
調子に乗って、それ以降、前にも増して手紙を書いている。送信したら2分以内に返事がこないとイライラする電信メールとは違って、存分に時間をかけて、気持ちが入ったときに、それを渡すか郵送する。手紙とは手わたしする紙でもあるという解釈もまた好きなところ。
ちっちゃい子どもからもらう手紙。あっちこっちめちゃくちゃになった文字で書かれた言葉には、その子の表情が映る。たったひとこと「ありがとう」。それだけでも何十枚分もの便せんに敷き詰めた文章に匹敵するから肉筆は偉大だ。父さん母さんが幼い子どもから手紙をもらう喜びは、その言葉もさることながら、指先を通して綴られた文字にその子の気持ちを読み取るからだろう。
今さらラブレターなんて、という読者も多いことでしょう。せめてメールでの「THANK YOU!」を、メモ紙に「ありがとう」って代えてみてはいかがでしょう。そしたらまたメールをすればいい。便利なこともあるけど、たまには手紙だってあるよってこと。そうすれば、きっとメールにも違う花が咲くかもしれないよって、ちょっと思っただけのことです。