創刊号第1回 関自慢最強案内
「ねえ、関ってどんなところ?」
この質問、ほとんどの人が聞かれたことがあるはず。そんな時、あなたはどう答えますか?「遠くから友達が遊びにくるけれど、どこを案内しよう・・・」コレ、実は結構困ったりします。でも関って意外と全国に自慢できるすごいところってあるんですよ!刃物はもちろん、日本で初めて鉄砲を作ったのは関鍛冶だし、ディズニーランド&シーの水はすべて関の水、渋いところでは、歴史の教科書にもある「大塩平八郎の乱」の大塩平八郎の子供は、関のお寺の住職だったんです。ほら、たったこれだけでも興味が湧いてきませんか? この「ぶうめらん」のコンセプトは「関を自慢するネタ帳に」ということ。創刊号では、たくさんの自慢の中から厳選した3つのスポットを紹介します。さあ、「ぶうめらん」を読んで、さっそく友達に関の自慢をしてみてはいかがでしょう? あなた自身、関を知ることで、もっともっと毎日の生活を楽しむことができます。だって、毎日通っているあの場所が、実はすごいところなんですもん。
小瀬鵜飼〜心して観るべし。
夏の風物詩である長良川の鵜飼。1300年来、我が国の古代漁法として伝承されてきた鵜飼漁が御料鵜飼(ごりょううかい)として皇室の保護のもと行われている。特に小瀬鵜飼は関の人にとって身近に感じるもの。しかしながら、意外と実際に鵜飼を間近で見たことがない、或いは上手く説明が出来ない人も多いようだ。
ショーではなく漁
小瀬鵜飼は明治23年から宮内庁の直轄となった。日本の河川で御料場が設置されているのは長良川だけであり、宮内省から職員の身分を与えられ、雅楽を奏でる楽士や鷹匠(たかじょう)と同じ、宮内省式部職(くないしょうしきぶしょく)としての活躍する鵜匠は全国で9名。その内の3名がここ小瀬鵜飼の鵜匠だ。小瀬川の御料鵜飼は、美濃市の立花地区で毎年8回ずつ行われており、捕れた鮎は皇室に献上され、それ以外の時も小瀬川にて鵜飼が行われる。鵜匠達の本業は、あくまでも漁であり、ショービジネスではない。だから、屋形船の見物客は漁の邪魔をしないように拝見させて頂くのが、鵜飼を楽しむ上のマナーである。逆に言えば、見物客に楽しんでもらえる様ショーアップされた岐阜市の鵜飼とは異なり、こじんまりした小瀬鵜飼は、静寂のなか漆黒の山並みを背景に浮かび上がる。 篝火(かがりび)の元で、鵜たちの鮎を追う姿を間近に見られるというその素朴な風情が最大の魅力。「狩り下り(かりくだり)」という鵜匠が乗る鵜船と見物客が乗る屋形船が対になって一緒に下るスタイルも、この魅力を存分に堪能させてくれるポイントの一つである。
鵜匠の仕事
鵜匠は、鵜飼を行うのみならず、鵜たちの健康管理、調教も大切な仕事となる。鵜飼に使う鵜は、主に海鵜である。川鵜と比べ、身体も大きく体力があるのと、くちばしが長いため鵜飼には向いているそうだ。関にやって来た海鵜たちは、3〜4ヶ月ほどのトレーニングを受け、現場で修行を積む。それでも一人前の鵜となるには3年ほどかかるそうだ。素潜りが上手な海鵜でも、「たなわ」と言われる手綱を付けると勝手が違うようで、中には溺れるものもいるとか。
小瀬川今昔
最近の小瀬川では、鮎の遡上が少なくなっている。「水質も昔と比べ劣化し、川底も浅くなってきている」と鵜匠の四代目岩佐昌秋さんは心配する。近年、バーベキューを楽しむ人が川原まで車を乗り入れるようになり、魚達にとって小瀬川が住みにくい環境になってきているそうだ。岩佐鵜匠のお話からは、ふるさと小瀬川への愛情の深さを感じた。そして、関市民である私たちも、小瀬鵜飼をふるさとの自慢として大切に見守らなければならないことを実感した。
新長谷寺(通称:吉田観音・きったかんのん)
市街地の中に構える新長谷寺は、一歩境内に踏み入れると美しい歴史建築物がきれいに立ち並び、市街地の中にいるとは思えないほど静かな場所でとても神秘的なお寺である。新長谷寺の歴史は平安時代までさかのぼり、当時は吉田寺と呼ばれる小さなお寺であったが、一二二二年に最初の住職が修行後に七堂伽藍と16の子院を創建したのが新長谷寺の始まり。
新長谷寺には国指定重要文化財がたくさん!
ほとんどの建築物は国の重要文化財、または市の文化財に指定されている。京都や奈良のお寺と比べると規模は小さいかもしれないが、重要文化財の多さはこの地方のお寺では群を抜いていて、その数の多さから「美濃の法隆寺」とも呼ばれている。
三重塔は天邪鬼が支えている
新長谷寺の象徴ともいえる「三重塔」は国の重要文化財に指定されている。三重塔は本堂と同じく鎌倉時代に創建された。この三重塔で注目すべき点は二層目の屋根の下に「天邪鬼」が潜んでいるということだ。天邪鬼は四隅におり、建築学上「くさび」の役目をしている。また、この天邪鬼は「雨乞い」の意味もあり、三重塔を支えているのと同時に雨乞いの仏様と、二つの大役を担っているとても大切な存在なのだ。
新長谷寺にある仏像の作者はあの有名な仏師らしい
新長谷寺の入り口に建っている市指定文化財の二王門。この門には2体の金剛力士像が立っているが、作者はなんと東大寺南大門の金剛力士像を作った運慶。運慶作で新長谷寺にあるような大きさの仏像はほかではほとんどないという。また、三重塔の向かいに建っている阿弥陀堂に祀られている阿弥陀如来像の作者は運慶と並ぶ仏師と称される快慶。運慶、快慶は歴史の教科書に出てくる仏師で、誰もが一度は聞いたことのある人物だが、その有名な仏師の作品と仏画師巨勢金岡の筆に寄る春日型の厨子とともに祀られています。
徳川家の庇護を受ける歴史上重要な拠点
魅力は建造物だけではない。新長谷寺は歴史上重要な意味を持っている。関ヶ原の戦いの前哨戦がこの地を巡って行われているのだ。徳川側についた新長谷寺は、豊臣側の攻撃を総門(大門)を堅く閉じて防戦。この戦いで新長谷寺が落城せず、守り切ったことが関ヶ原の戦いの勝利を生んだと言われている。徳川家は感謝の意を込め、後に様々な寄進をしている。その堅く閉ざした総門は、もとは豊臣秀吉の寄進というのもなんとも皮肉な話である。
「拝観させていただく」という気持ちで
数々の見所があり、関のジンであればぜひとも訪れてほしい新長谷寺。その一方で、せきガイドグループ会長の纐纈氏はこう言う。「新長谷寺は観光地ではなく、学問と修行の場。全国の神社・仏閣も同じですが、拝観させていただくという心が大切です」。住職はじめお寺の方々は、厳しい戒律の中で修行されており、占いやご祈祷に訪れる人々も多い。私たちが見に行くにしても、この守り続けている歴史や伝統に感謝し、厳粛な気持ちで拝観しようではないか。